心の片隅に影響を残している本について,好き勝手に書いてしまうコーナーです。
天路歴程 | 空飛ぶ絨毯 | チョコレート工場の秘密 |
時をかける少女 | ABC殺人事件 | 銀河鉄道の夜 |
ロシア語のすすめ | 草野心平詩集 | 落書き絵選詩 |
芋粥 | 古代都市の秘密 | 山月記 |
般若心経 | 荘子 | 正法眼蔵 |
曼荼羅 |
「世界子供文学全集」第1巻のなかにあって,子供の頃に好きだったお話のひとつでしたが,名前しか覚えておらず,ずいぶんあとになって大きな書店の宗教関係のコーナーに見つけた本です。まさか宗教関係のコーナーに置かれるような本だったとは思ってもいませんでした。
実は大人になってから和訳本を見つけたんですが,なぜタイトルに「正編」とついてるのかなぁと思っていたところ,数年後「続編」があるのを発見しました。そこは納得したんですが,私はどちらかというと「正編」のほうが好感が持てます。「正編」の結末と「続編」の結末とでは,はっきり言って性格が全く違うので,「続編」を読み終わった時は変な感じさえしました。
ひとことで言ってしまえば,クリスチャンという人が「滅びの町」を出て途中様々な苦難に遭いながらも「天の都」に着く,その旅路のお話なのですが,そのなかには聖書の出来事や言葉がそこかしこと散りばめられており,登場人物の名前が「正直者」「臆病者」「誠実者」等々,性格をあらわしていて,この性格の人物はこういう考え方をするということを検証できそうなこと,そして何よりも・・・自分が死後もしこんな旅をすることを許されるならぜひそうさせてもらいたい,そう思うからだと思います。
これも実は「天路歴程」と同じ「世界子供文学全集」第1巻にありました。当時の私にとって,ちょっと分厚いその本はまるで玉手箱か魔法事典そのもののような感覚でしたねぇ。
「空飛ぶじゅうたん」というもの自体は,「アラビアン・ナイト」に出てくる魔法用具のなかでも特に有名なもののひとつですが,今回ここに掲載するにあたり原典をあたろうと思ったら,不思議と「千一夜物語」つまり「アラビアン・ナイト」の全集録版が見つからないんです。たしか岩波文庫で十何巻かあったはずなのに。(^^;
インターネットで調べたら,私が覚えている”うろ覚え”のお話とは異なるお話がもうひとつあるみたいですが,今回は私の”うろ覚え”のお話を載せています。あらすじを全部書きましたので少し長いですが,よろしくお付き合い下さい・・・。f(^^)
これは完全に「児童書」の部類になります。
初めのほうは,主人公の少年がとても貧乏だという話が続いていて,なかなか進まなかったんですが,その少年がある日,近くにあるとても大きなチョコレート工場のなかを見学できるという幸運をつかみます。
でもこのチョコレート工場というのが半端じゃない,とても信じられないような規模なんですね。チョコレートを混ぜ合わせるために大きな滝を作ってしまう,なおかつその川を,これまたチョコで出来た船で進んで行く,くるみの実を取り出すのに「リス」がいっぱい働いている部屋があったり・・・でも最後にはこの見学の企画に隠された創立者の意図が出てくるのです。
奇想天外なお菓子の数々,最後の展開などで,とっても好きになった作品です。
これは中学くらいでしたかねぇ。新書版でした。
SFのもつ科学的な世界に初めて触れた作品で,この作品から私は「時間」と「空間」の概念がたまらなく好きになったようです。この作品は映画化もされたので,あらすじをご存知の方も多いでしょう。
女子中学生が学校の理科室でラベンダーの香りがする薬品の匂いをかいでタイムトラベラーの能力を身につけてしまうという物語ですが,当時はお話に出てくる「ラベンダー」がどんな香りなのか,花の形さえ知りませんでした。今では枕元にラベンダー入りの小袋が置いてあったりするのですが。
また,いっしょに収録されていた「果てしなき多元宇宙」という作品では,別の宇宙には違った形で存在する自分がいるのかもしれない,という考え方が盛り込まれていて,これも私の心の奥にしまい込まれています。そういえば自作の小説の中にも少し出てきましたね・・・。
私はこの本を皮切りに,SFへ,やがてミステリーへと発展していくのです。さすがにホラーやオカルトにはいきませんでしたが。(笑)
アガサ・クリスティ原作の本格ミステリーです。
コナン・ドイルの名探偵「シャーロック・ホームズ」シリーズも有名ですが,こちらはベルギー人の探偵「エルキュール・ポワロ」で,親友のヘイスティングズ大尉とともに,事件を解決していきます。ちなみにポワロが利用する移動手段は自動車。時代背景としては,馬車が出てくるホームズよりは若干時代が下がるようです。
ベルギー人ということで英語はたどたどしく,立派な口髭を生やした,ちびで小太りのおじさん・・・というが彼の風貌。それがひとたび事件となると「灰色の脳細胞」が働き始めます。ホームズが当時の植民地時代を背景にしたトリックや比較的大きな犯罪を対象にしているのに比べると,ポワロの事件はどちらかといえば心理的な要素が多いように思います。
この事件では,「ABC鉄道案内」という,駅名のアルファベット順になっている時刻表のようなものがあって,あるときポワロの元に脅迫状が届き,その手紙の通りに,Aで始まる駅の近辺でAを頭文字にもつ人物が殺害されます。そしてそれから数件にわたって殺人が繰返されていくのです。
個人的には,おそらく全体に流れる雰囲気みたいなものに惹かれたのかなぁと思いますが。それに時刻表って普通,路線に沿って書いてあるじゃないですか。それを駅名のアルファベット順だなんて,いったいどういう構造してるんだ?!そもそも実際にあるのか?!なんてことで印象が強くなったんでしょうね。
あとからどこかで「路線別に書いてあると,まず行こうとする駅がどの路線かを知らなければならない」ということを読んで,それもそうかなと思ってみたりもしましたが,それにしても,まず路線図で探せば済むんじゃないだろうかなぁと考えちゃうと,やっぱり納得いかないですねぇ。(笑)
そういえばモスクワでは,駅名には”行き先の地名”が付いてるんだそうです。そうするとモスクワ市内に「サンクト・ペテルブルク駅」とか「キエフ駅」があることになります。国や民族の違いによって”考え方が違う”のは当たり前とはいっても,ここまで違うものなのかしらん・・・。(^^;
宮沢賢治の作品に本格的に触れるようになったのは「詩」なのですが,今から思えば,そうなる前にこの童話の影響もあったのかなぁと思います。「詩」については,このあとまた単独で出す予定にしておりますが。
汽車が空を飛ぶ・・・いや,星の海を走るといったほうが合ってますね・・・凄いです。賢治は科学者でもありましたから,随所に「科学」が感じられるのですが,同時にその並外れた創造力,さらに両方を融合させてしまう構成力,さらにこの人は「みんなの本当の幸せ」を求めた人でもあり・・・。いかに大きい人であったか,研究すればするほどそんな思いが強くなる一方の人であります。(*^^*)
ほかに「セロ弾きのゴーシュ」これも好きな作品です。私はどうも音楽や科学が絡まってるとたまらなく好きになるらしいですね。(笑)
この本がなかったら,拙作ホームページの半分はできていなかっただろうと思います。
大学の一般教養の科目で「フランス語」の講義を受けて,いちおう形になったかなとか思った矢先,ふと目に留まったのがこの本。(^^)
高校生の頃に買ったダークダックスの「ロシア民謡集」というLP,そのなかに見慣れない文字で書かれた歌詞が2曲あったんですね。それが「ヴォルガの舟歌」(エイホーラっていう歌ですけど)と「モスクワ郊外の夕ぺ」。偶然にもこの「モスクワ郊外の夕べ」の歌詞と訳詩がこの本に出ていたんです。「よかった~,これで歌えるぞぉ」と。・・・でも,これぞまさに迷宮の入り口でした。(笑)
実は今でも,自分の文章がおかしくなってきたかなぁと思ったら,この本と,同シリーズの「はじめてのロシア語」を流し読みします。どうも時々,ロシア語の語感が必要なときがあるようで。(^.^)
ちなみにこの「講談社現代新書」シリーズ,本屋さんでは薄黄色のかたまりになってるので,非常に目立つんですけど(笑),いろいろな言語で「~語のすすめ」と「はじめての~語」とがあって,英語とラテン語以外全部に目を通した結果,「~語のすすめ」のほうが初歩で,「はじめての~語」は中級みたいです。ご参考までに・・・。私としてはあと2つほど出して欲しいのがあるんですけどねぇ。
と書いてたら,2003年10月「はじめてのアラビア語」が出版されているのを発見しました。最近,中近東が注目を集めていますから,そのせいでしょうかねぇ・・・。
卒論のテーマにまでなった人です。(^^)
よく「蛙の詩人」と呼ばれ,私が彼を知ったきっかけもそこからではありますが,その後は彼の「宇宙」「地球」「億年単位」の概念のほうに強く惹かれたように思います。それと純粋に生命と向き合うこと・・・かなぁ。彼の詩と出会った時はほんとに新鮮な気持ちがしたものでした。
ちなみに,宮沢賢治を初めて詩壇に紹介したのも彼なんだそうです。ともに純粋な人だったんだろうな,というのは私の私見ですが。
タイトル後半は「エッセンス」と読むようです。津軽弁の詩を,手書き文字とイラストで書いてあるちょっと変わった本です。
これも存在を知ってから数年かかって,「天路暦程」を見つけた某政令指定都市の大きな本屋さんでやっと見つけました。(やれやれ(^^;)
この本ほとんど「ひとり暮らし」の状態がいかにも冗談ぽく書かれていたり,なかには「消しゴムで書いた落書き」なんていうのもありますが(笑),決して面白いからとか方言のお手本という意味からとかではなくて,どこか暖かくて和むところに惹かれたんだろうと思います。
また,この本からは,たくさんの”輸入語”が私の中にできました。順接の接続詞「はで」・逆説「ばて」・格助詞「ば」(~を)・「さ」(~に)・形容詞「まね」(だめ)・・・等々。”今日は雪でねぐて雨だはんで,雪だるまば作れね”なんて。(^^)
私の日常ではほかに,不思議とあまり行った事のないはずの関西弁と,博多の「よか」「大きか」なんて使うこともたまにあるので,訳わかんなくなりそうですけど,同時に混ぜて使うことは今のところないようです。もしごちゃまぜになるようになったら,以降は母方言(?)である関東弁に徹しようと思ってます。(^^;
この作品に限らず,芥川龍之介の平安期に題材をとった「王朝物」と呼ばれる作品群は大方好きです。「羅生門」「鼻」・・・「蜘蛛の糸」もそのなかに含まれるでしょうか。中国の話ですが「杜子春」とか。
平安時代,まだまだ人は動物と近い感覚を持っていて,一部怪奇なものの存在も残っていた,そんな混沌とした世界に魅力を感じ続けているのかもしれません。
そのなかで特にと言われればこの「芋粥」です。小さい頃に読んだ感覚では「何事も過ぎたるは及ばざる如し」というのが特に印象に残っていて,それが体のどこかに染み付いています。もちろん,思い切っていかなきゃいけないときもあります。それをどう使い分けていくかというのは,やっぱりその人の裁量によるんだと思うんですよね。(^^)
・・・という過去を背負いつつ,今回読み直してみたら,作者としては「思いがけず夢が叶えられてしまった」ことへの”とまどい”のほうに重点を置いて書いているような気がして。やっぱり同じ作品でも感じ方は受け手の心の成長度やそのときの状態によって違ってくるようですね。
生きていく柱である目標を失った主人公は,その後どうしたのか・・・新たな夢を見つけて,ただ宮仕えを淡々とこなすこれまで通りの生活に戻ったか,あるいは生きる目的を失って出家したか,まぁ私にはどうもこの人のためには出家して限られた人数の気心の知れた人たちとだけ接する生活を送ったほうがよかったのではないかと思われて仕方がないのですけれど。
すみません。これは漫画です・・・。
私が小学生だった当時,子供向けに学科の漫画本というのができ始めました。今でも大手出版社発行のものは発売されているかと思いますが,この本はどうやら大手出版社の刊行ではなかったらしく(というのは,発行者も何もわからなくなっているので),今はもう手に入りません。
で,それには邪馬台国の時代の風俗やらメソポタミア文明の「美しいレリーフの門」とかが載っていたのですが,なかでも全体の半分くらいあったのではないかと思われるほど詳しかったのがエジプトの「ピラミッド」。中に入るとどうなっているかというのが延々と,大回廊には「くぼみ」があってその幅が下の廊下と同じなのは何故か,ということまで書かれていたんですね。当時としてはすごく珍しかったはずで,わくわくしながら読んでました。
今では,テレビやインターネット,詳しい解説本までありますし,パソコンで内部を疑似体験できるソフトを楽しめたりもしますが,私の内部にはどうもこの本での記憶が残っているようです。
ピラミッドといえぱ,これは紀元後すぐの頃からすでに目的も正式な名称も忘れ去られていて,当時からお墓だと考えられていたらしいのですが,早稲田大学の吉村教授の研究によると,ファラオ(王様の意)の魂が太陽神と離れてまた戻っていくための施設だということで,その考え方に従えば左右対称にまったく同じ部屋や通路があることになり,実際にそれらしき空洞も発見しつつあるとのことです。
では教授は何故それを発見できたか,そこが尊敬しちゃうところなのですけれども,当時のエジプト人のものの考え方,心が見えたからこそ「そこにあるはずだ」という仮説を立てられたのではないか・・・。
人は誰しも「自分なりの価値観」に支えられた「心」によって動くものです。心まで見て初めて「そのひと」がわかる,また常日頃わかるようになっていなければいけない。そんなことも思うのです。
行方不明になっていた友達が,虎の姿になっていたというお話・・・これも教科書などで取り上げられていて有名ですね。
人間らしからぬ心で日々をすごしていた主人公の口から語られる「人間性の定義」。人と「獣」との違いは何か・・・今,BSEだインフルエンザだと「食物」となっている動物たちについての異常を思うとき,草食獣の牛に肉骨粉を食べさせたり,身動き取れないほどの鶏舎に鳥たちを押し込んで病気にならないようにと抗生物質を与え続けたりしている人間の傲慢さへの。自然からの制裁のように感じられてなりません。自然は繊細ではあるけれど強いもの,そんなふうに思うのです。人には,開けてはならない箱とか,決して行ってはいけない聖域とかいったものが必要なのではないでしょうか。人がいつまでも「人」であり続けるために・・・。そんな思いをこの作品は再認識させてくれるような気がします。
ややこしい言い方ですが,厳密に言うと「般若心経」そのものを理解したいとは思いつつ,実際に理解しおおせるかというとかなり難しいので解説書の助けが要るわけなんです。
もし般若心経の意味するところをすぺて理解し,身につけられたら,おそらくそれ以上の幸せはないでしょう・・・感覚的にそう思っています。この経典にはそんな不思議な魅力があるのです。お経がわかりにくいのは,サンスクリット語の原典が中国語に訳されたまま,日本語には訳されなかったせいなのですが,その意味するところを解読し,かみくだく作業をしておくだけでも,なんともいえない清涼感を感じることができ,またその思想に少しでも近づいているということ,その一歩一歩もまた目的になり得るのも不思議です。宗派を超えて読み継がれる理由も。心経の説く真理の純粋さにあるのかもしれません。
常識とは何か?人は誰しも自分が生まれ育った環境に縛られて育つものです。ヨーロッパ語圏や中国語圏の人に日本語やアラビア語圏の
感覚や考え方をそのまま理解することはまずできないでしょう。よほどの感覚を持った人でなければね。でも、全くいないとは言えませんし、
あるいは”気がつけば””誰でも”そうなれるかもしれません。
荘子は、そうしたものを取っ払いました。物事は、すべて自分の解釈・認識の通りとは限らない。宇宙はとてつもなく大きく、人智など
遠く及ばぬ・・・。
玄奘三蔵がサンスクリット語のお経を訳すとき、ずいぶん荘子の言葉を用いたといいます。つまり、もとから「禅」思想に似たものを荘子は持っていたのです。
いまだ会得途上ですが、学びたいもののひとつです。
「すべてが仏性を持つのではなく、すべてが一つの仏性に溶けているのである」と道元は言います。私もこの考え方に納得します。
たとえば大きなプールなりビーカーなりに水を満たして、その中に透明なコップを入れる。コップ、見えなくなりますよねぇ。
でも、溶けてなくなったのではなくて取り出すとちゃんとある。我々もすべてそうなんじゃないだろうか。。。
私にはそう聞こえます。
道はそれぞれ違っても、行き着く先はひとつしかない!それが人であり、平等であることの根拠なのです。
自分を”誰か”より強くしたい人々が多い昨今、特に思うのは”本当の強さ”への誤解です。世の中は意外にも心で動いていることに
みんな気が付かない。相手を武力でねじ伏せることは知っていても、それは本当の強さではありません。慈悲、優しさを伴わぬ力は結局
”無力”なものです。曼荼羅に2つあるのも、智恵と慈悲が車の両輪のごとく働くからだと思うのです。
昔テレビでこんな言葉がありましたねぇ。・・・「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格はない。」
でもこれって、人そのものではないでしょうか。